漫画(無推敲及び眠い)

漫画家志望の友人と久しぶりに会ってご飯食べたりREDLINE見たりしていた。初めて漫画の生原稿というものを見て、その大きさと繊細さに驚き、そして内容を読んでもっと驚いた。舞台設定は漫画であれば許容出来るレベルの変さだったのだけど、人物に溢れる狂気が半端なかった。主人公もヤバかったし、それ以上に主人公の母親が「どうしたらこんなの思いつくのだろう」と疑問に思うほどエグかった。ページめくってる間頬引きつりっぱなしw それを全て計算ではなく素でやっていると聞いてさらに驚いた。その母親は狂気どころか「普通に教育的」なつもりで描いたと言うので耳を疑った…。そのあたりの「狂気」具合には当初全く無自覚だったらしく、持ち込む先持ち込む先で言われて自覚したのだそう。彼女には俺が知っているようないくつかの雑誌で担当が付いているのだけど、どこでも言われるのは「ものはいいが(好きだが)商業には載せられない」とか「もっと王道な感じに」だとか。さもありなん。あれは本当にジャンル不明・正体不明なので扱いに困るだろうw ただ逆に得体の知れない妖しげな魅力は確かにあった。彼女の漫画も一応は「主人公が成長する物語」として読めるのだけど、味方も敵も目標も出てこないので、結果として物語の存在感が薄くなっていたのではないかと思う。物語の作り方については大塚英志が何冊か書いているので読んでみるといいよ、とオススメしておいた。ついでに全員狂気じゃなく読者が共感できる常識人の友人でも出すといいんじゃないかという思いつきを投げてみたら、既に同じようなことは複数の担当に言われていたらしい。物語もまた、共感・感情移入のために必要とされる。表現に共感することは、不可能ではないが難しい。恐らく抽象的な存在である物語が自らに引きつけるなどある程度自由な解釈を許すのに対して、具体的な表現は解釈の余地が少ない(俗に言う深読みは可能ではあるが)ためではないかと思う。共感装置としての物語の強力さは、歴史を見返してみれば明らかだろう。しかし、物語は表現されることによってのみ伝達される。漫画では、物語が表現を規定するだけでなく、表現(漫画という形式それ自体も含む)もまた物語を規定している。恐らく同じことは他の多くの表現活動にも言えるのではないかと思う。この点にどれだけ自覚的であるかがプロとアマの分かれ目になり得るのではないかとも思ったが、思いつきの域は出ない。彼女の作品の場合は物語ではなく、メッセージだったのだと思う。それは表現の側に過剰に偏った結果だったのではないか。おそらくはその結果として、あのような共感の出来ない、しかしながら何かが確実に伝わってくる不気味なもの、が完成したのではないかと思う。その不気味さはディスコミュニケーションによるものだった。着地地点が分からなくなってきた(あるいはそもそもなかった)ので、「私たちの日常を支えているのは物語とその表現である」あたりにまとめておいていいですか。おやすみなさい。