「非リアである」皆さん、疲れませんか。

どれだけ「非リア―である」かで争うのはもうやめませんか。

差異化ゲームは、単純に「差異」を生み出し、それを個性にするというステージを超えたように思える。そこにおいては差異によって、「つまり●●と違う」ということによってむしろ同質性を共有するという傾向がみられるだろう。勿論これは基本的な「差異化」というものには必然的に併存するものだ。●●と違う、は●●でない××と同じ、と換言することができるのだから。

差異化ゲームの疲弊感は、「●●でない」という形式への志向性へとわたしたちを導き、それによって「●●でない私たち」というくくりの中に自己の居場所をみつけた。
そしてそれが重圧の軽減された自己承認、ひいては「癒し」の形態として現れているといえるだろう。

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そもそも、「リア充」という言葉が対比的なものだった。使われる際にはいつも(俺/俺らとは違う)という響きが含まれていた。そこから「リア充―でない」という一体感を得て、癒しを得ていた。
しかしその構図が「非リア―である」という言葉が出てきた途端に引っ繰り返る。「リア充―でない」という差異化の先、「どれだけ非リア―である―か」という差異化が始まる。
この時から、「非リア―である」は「リア充―でない」よりも限定された(時にははみ出した?)概念となる。
「非リア―である」ことはとても簡単だ。「になる」必要さえなく、単に「である」だけでいい。そしてそれゆえに「―になる」オタクだとか大学生だとか無職だとかよりも自分のアイデンティティに密着しているように感じられる。だから「脱オタク」と違い、「脱非リア」という言葉が聞かれることはない。
「非リア」とは心が感じる空虚の表現であって、外から観察することは出来ない。だから、最も「非リア―である」のはそう感じている私であるということになる。非リアの集合は「私」しか含まない極めて限定されたものとなり、他の人々はすべて「非リア―でない」とされる。
その先は、それぞれの「非リア」を生きているそれぞれの人々が我こそ真の非リアと、永遠に終わることのない差異化の渦に巻き込まれることになる。


この差異化ゲームは、さまざまな人々がさまざまな心のありようを「非リア」の三文字に乗せて表現しようとすることから始まった。ここからとりあえず脱する道は少なくとも2つある。

  1. 「非リア」の意味を本来の「リア充でない」というだけのものにする。または「リア充でない」を使う。
  2. 「非リア」に代わる表現を自分で見つける。自分の心をより正確に表せる、オリジナルの表現を使うようにすれば、少なくとも「我こそ真の」という排他的な争いは止まる。

個人的には「リア充対非リア」という2分法の価値観から脱し活き活きとした言葉の世界に場を移す2がオススメですがお好きな方をどうぞ。
楽にいきましょう。